絵島と生島の悲恋物語 

写[絵島囲み屋敷内部]
大奥の女中「絵島」と人気役者であった「生島新五郎」との有名な話ではあります。
その高遠の桜を見に行った時の絵島の屋敷の写真です。
 
時期が早く桜は1週間遅く咲きました。・・・・・悔しい。
お城のそばにある絵島生島物語の「絵島」が処罰されて住んだ屋敷です。
当時、大奥女中と役者との恋愛は御法度でした。
絵島は宝永元年、江戸時代六代将軍家宣の愛妾である、七代将軍家綱の生母「月光院」
に大奥女中として仕えることになりました。絵島は容貌が美しく、同僚にも慕われ
月光院の信頼も厚く、出世して大年寄となりました。  
その後、絵島は正徳四年(1714年)芝居見物で知り合った人気役者「生島新五郎」
と馴染を重ねるようになりました。 その年1月12日、7代将軍家継の生母、月光院は
自分の仕えている年寄「絵島」を芝の増上寺へ、同じく「宮路」を
上野寛永寺に代参させた。
参詣を済ませると二人は寺の接待を断り、かねてからの打ち合わせ通り、早々と
山村座の芝居見物に向かった。芝居が終わると茶屋に役者・「生島新五郎」
を招いて大酒宴を開き、日が暮れてから帰城したそうな。
この件は寺の訴えから発覚し、評定所で審議され「絵島は桜で有名な高遠に遠島
、生島新五郎は流罪」となり、山村座は廃絶、
連座者1,500人に及ぶ大事件になった。□絵島囲い屋敷高遠湖の北畔に、絵島が寛保
元年(1741)61歳で没するまでまでの28年間幽閉された囲み屋敷が復元されている。
屋敷全体が板塀で目隠しされ、木の両端を鋭く尖らせた忍び返しが、塀の上に並んでいる。
廊下には目の細かな格子戸がはめ込まれ、一般屋敷にはない囚人屋敷の佇まいが、
特徴的である。そのかたわらに生島の流刑地三宅島から土を取り寄せて埋めた比翼塚が建つ。
絵島の部屋は南側の8畳間1間きりで、風呂場と便所がついてある。一瞬のつまずきであったか、
61歳の大往生をするまでの28年間の半生をここで処で幽閉され。駕籠の鳥ならず、
四季の変化もこの囲い屋敷の中でおくる不自由さに耐える絵島の芯の強さは半端
ではなかった。身の廻りを世話する下女1名、そして昼夜わかたず、屋敷の内外を警固する
武士に見張られ、幽閉の日々を送った。
「絵島殿検視問答書」から当時の厳しい生活が記録されている。

参考資料:
高遠歴史の散歩道・・・高遠町観光協会
秋田書店「歴史と旅」三百諸侯の城下町総覧「花咲く城下町に女人の悲話高遠」